江差町 [江戸の歴史と文化を伝える]

2008年 : パノラマ[道内], 北海道遺産, 建造物, , 歴史・伝承, 江差町 No Comments »

NHKの大河ドラマ篤姫もいよいよ面白くなってきましたが、松前町を後にして悲運の徳川幕府軍艦「開陽丸」を目指し江差町へ向かいます。

江差町は北海道の南西部に位置し、北海道文化発祥の地ともいわれ、江戸期のニシン漁最盛期には「江差の五月は江戸にもない」といわれるほどの繁栄を極め、北前船交易によりもたらされた江差追分などの伝統芸能や生活文化が数多く伝承され、江戸の歴史と文化を今に伝えています。

国道228号の海岸沿いを走ること約1時間。
(途中、中世日本海北方交易の中心拠点であった上ノ国(かみのくに)を通過)
前方左手に三本マストの帆船が見えてきました。江差町です。
朝から小雨の降り続く生憎の空模様ですが、まずは道すがらのJR江差線江差駅前に立ち寄ってみました。


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JR江差線 江差駅

江差駅を後に、いよいよ開陽丸です。


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悲運の徳川幕府軍艦「開陽丸」

その軍艦は、駅よりほど近いく開陽丸青少年センターに復元保存されています。

「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」と詠われた徳川幕府の巨船開陽丸。
幕末にオランダで建造された幕府軍艦で、戊辰戦争中に榎本武揚らを乗せ活躍しましたが暴風のため僅か1年7ヶ月後の明治元年(1968年)江差沖で座礁、沈没。

それから124年、
平成2年4月にオランダに残っていた設計原図をもとに実物大で復元されました。

昭和50年から始まった引き揚げ作業で発掘された遺物は約33,000点にも及んでいます。
開陽丸は、日本の近代化に著しく貢献し、オランダ留学を果たした榎本武揚はじめ14名のありし日の姿など、貴重な資料、遺品の数々が船内に保管展示されています。
※ 開陽丸出土遺物:江差町指定有形文化財

→ 悲運の徳川幕府軍艦【開陽丸】 QTVRパノラマ映像

そして町中心部へ車を走らせる頃には青空が広がり始めました。
まずは私の定番行動:地元の役場を訪れ資料の閲覧や史跡等のお話を伺います。


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江差町役場

江差町役場内は開放感があり、あまりの立派な造りに驚き。

一通り資料を頂き、役場正面左手前にある国の指定重要文化財「旧中村家」へ歩き始めました。


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旧中村家 正面から

ここ旧中村家は、近江商人大橋宇兵衛が建設したもので、ヒノキアスナロ(ヒバ)を主材料に、土台は北前船で運んできた越前の笏谷石(しゃくだに-いし)を積み上げて建てられました。さらに母屋から浜側まで文書倉、下の倉、ハネダシ(はね出し)まで続く通り庭様式で、当時の面影を偲ぶ問屋建築の代表的造りの建造物です。

役場近くの横断歩道正面にハネダシ(桟橋兼倉庫の役目)が見えます。(上の写真)
昔は建物のすぐ前が港。船が着岸し、このハネダシと呼ばれる海岸に柱を立てて作られた倉庫が荷揚げ場となり荷役を行っていた。(現在は埋め立てられ国道228号となっている)
母屋(正面)は一本内側の道路(いにしえ街道)に面しており、その背後に数個の倉とこのハネダシが連なっています。

住宅は大正初期に大橋家から中村米吉が譲り受け、昭和46年に重要文化財に指定、49年に中村家より町に寄贈されました。
そして昭和57年に修復作業が完了し、現在は一般公開されています。

→ 旧中村家 QTVRパノラマ映像


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いにしえ街道マップ「中村家エリア」

旧家の並ぶ「いにしえ街道」をさらに歩き「横山家」へ向かいます。


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横山家

ここ横山家は初代から数えること200年が経過。
初代は天明6年(1786年)現在地において漁業、商業、回船問屋を営んでいました。

現在の建物は今から約160年前に建てられた家屋で、昭和38年に道の文化財指定を受け、現在はこちらも一般公開されており、母屋と四番蔵にはニシン漁全盛期に使用されていた生活用具などが展示されており、当時の暮らしぶりを知ることのできる貴重な建物となっています。

こちらも旧中村家と同じで傾斜地に建てられた正面からハネダシまで全体の奥行きには驚きます。(横川家は奥行きが70mあるといいます)


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江差姥神大神宮

横山家の正面、通りの斜め右手には「江差姥神大神宮(えさし-うばがみだいじんぐう)」があります。

毎年8月9日~11日の三日間行われる江差姥神大神宮渡御祭(えさし-うばがみだいじんぐう-とぎょさい)は豪華な13台の山車(やま)が町中を練り歩く、道内で最も絢爛豪華なお祭りで、「姥神大神宮渡御祭と江差追分」は北海道遺産に選定されています。
道内の祭りで一度は見てみたい一つです。

→ 横山家 & 江差姥神大神宮 QTVRパノラマ映像

旧関川家別荘」にも足を伸ばしたいのですが、時刻は午後3時を過ぎています。
また函館まで戻らねばなりませんので今回は諦めることにしました。

関川家は松前藩きっての豪商として江差で回船問屋を営んでいました。
別荘には、江差最盛期のころの様子を伝える貴重な古文書や調度品が大量に保存、公開されているところでまたの楽しみにとっておくことにしました。
残されている古文書のなかでも「関川家文書 (セキカワケ-モンジョ)」は江差の歴史を知る上で貴重な資料となっています。


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関川家文書(セキカワケ モンジョ)

※ 関川家文書 (セキカワケ モンジョ)
内容は江差町史・資料編四(江差町史編集室)にて見ることができます。
町史の主な内容は、昭和53年に初公開された江差の豪商関川家の膨大な古文書中より一部を翻刻したもので、松前藩勘定奉行、開拓使の準判仕御用達を勤めた8代目関川平四郎の日記19冊を含む。 ( 江差町 昭和56年刊 1546頁)

姥神大神宮渡御祭の起源は360年前にさかのぼります。
その年のニシンの豊漁に感謝を込めて行われたお祭で、現在も毎年8月9日~11日にまちは祭り一色となります。
13台の山車が祇園囃子の調べにのって町内を練り歩くさまは圧巻。

江差追分は中山道の馬子唄ルーツに、北国の厳しい風土にもまれながら多くの先達に唄い継がれてきました。日本国内だけでなく、海外にも多くの愛好者を持ちます。はるか遠い江差のニシン景気を今に伝えます。
(北海道遺産より)

【江差】 アイヌ語地名
 エサシ = 昆布の意



※ 訪問日:2008年7月29日(火)
雨時々晴れ14:50 気温/22℃ (.all images:biei.info)

松前城 [北の小京都]

2008年 : パノラマ[道内], 北海道遺産, 建造物, , 書籍・雑誌, 松前町 No Comments »

28日(月)から2泊3日で道南:渡島・檜山支庁へ出かけました。
函館松前江差を駆け足で廻った様子を順不同で紹介をして行きます。

昨日函館へ向け出発。
しかし函館に着く頃にはどしゃ降りの雨となりました。
道北は晴れていても、道南は毎日雨続きの空模様で改めて北海道の広さを実感します。

一夜明け、今日29日は函館から国道228号を松前町へ向け車を走らせます。
(午前7時40分出発)。
松前の手前に北海道最南端の地「白神岬」があります。


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強風の吹き荒れる白神岬

岬で写真を撮るため車のドアを開けようとするのですが強風で押し戻され、車のドアが開かないほどの強い風が吹き抜けています。
また北海道の海沿いを走っていていつも感じるのは、気温や風などの影響か、本州に比べて磯の匂いが弱いように思えます。

午前10時40分:松前町役場に到着。
役場内で資料を頂き、すぐ裏手の「松前城」へ向かいました。
城は町のシンボルであり、松前公園は北海道が誇る桜の名所でもあります。


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松前町役場

北海道で唯一の藩である松前藩は江戸幕府誕生からわずか3年後に成立、松前藩が蝦夷地の交易権を支配し、多くの北前船が行き来し繁栄しました。
そのため松前は北の小京都ともいわれ、日本の歴史のなかでも異彩をはなつ最北の古都なのです。

【松前城(福山城)】
日本海から太平洋に抜ける「津軽海峡」。
この入り口に位置する松前に海を向かって睨みを効かすように建つ城、それが渡島管内松前町にある白亜の城「松前城(福山城/ふくやまじょう)」です。
道内でも福山城というより松前城のほうがとおりがいいようです。


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復元された「搦手二の門」より

戦国時代、豊臣秀吉によって蝦夷島王と認められた蠣崎義広(かきざきよしひろ)は、徳川家康より松前の名乗りを許され、現在の松前城の地:福山に館を築きました。
以来松前氏は代々福山を拠点にして幕末まで13代に渡って蝦夷地支配を行います。

嘉永2年(1849年)幕府は北方警備強化(ロシアの南下に備え)のため松前崇広に新しい城を築かせます。
崇広は兵学者高崎藩市川一学を招き五年の歳月をかけて、日本古来の城の形を継承しつつも西洋の大砲技術を取り入れた松前城を完成させました。


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安政5年における松前城下 (岡山市 多田伊之輔氏所蔵:松前町史より)


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慶応3年7月の松前福山城 (市立函館図書館所蔵:松前町史より)

→ 復元された「搦手二の門」より QTVRパノラマ映像

平成16年春に搦手(からめて)二の門、天神坂門および城の周囲に構えられていた台場の一部が復元され、「搦手二の門」の塀には鉄砲狭間(てっぽう-ざま)が並んでいます。

帯曲輪 (おび-ぐるわ)には七門の大砲が据えられた一番から七番の台場があります。
津軽海峡に近づく外国船を見張ることが松前城の役目なのです。

天神坂門から搦手二の門に至る景観は、明治以降破壊されていた石垣を発掘調査で地中に残存している部分を検出し、忠実に石垣を復元、その上に門や塀を復元している。

また馬坂口は松前城の搦手にある門で、箱館戦争のさい土方歳三率いる旧幕府軍の歩兵隊が攻め上った坂だといわれています。

→ 松前城:天守と本丸御門(表門) QTVRパノラマ映像

復元された天守はコンクリート造りですが、昭和24年に焼失した外観を忠実に復元。
窓は小さく造られ実際より天守を大きく見せ、壁の内側には砲撃に耐えるよう鉄板が貼られています。現在天守の内部には「松前城資料館」があります。

天守の横に残る「本丸御門(表門)」は、「本丸御殿玄関」の一部と共に建築遺構。
本丸御門(表門)は城の門としては珍しい「切り妻屋根」になっており、冬場の凍結や雪の重み、強い潮風への対策から銅板で葺かれている。
塀の裾の部分は石垣で、城の石垣としては珍しい「亀甲積」になっている。


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本丸御門


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福山館本丸玄関(昭和58年まで松城小学校玄関として使用:松前町史より)

また表門の渡櫓(わたりやぐら)のある石垣には、箱館戦争の折に土方歳三らの軍勢が放った大砲の弾痕後が残っている。

外国船の攻撃に備えて築城された松前城。
皮肉にも明治元年新政府軍についた松前城は、旧幕府軍の猛攻を受け落城。翌年進攻した政府軍に奪回されるが二度の戦火にあっている。

また蝦夷地全体の支配の中心となるはずであったが、安政元年(1854年)6月、幕府は対露警備強化の観点から箱館奉行を再設置し、安政2年(1855年)2月23日にはこれまで松前藩領だった箱館周辺8ヶ村と全蝦夷地を幕府直轄としたため、その任務はあらたに建設される五稜郭(亀田役所土塁、また柳野城とも)に移された。

※ 築城時から現存する本丸御門は国の重要文化財、また2001年には北海道遺産(「福山城と寺町」)に選定された。

→ 本丸御門(表門) QTVRパノラマ映像
→ 本丸玄関 QTVRパノラマ映像

松前といえば桜!
北海道が全国に誇る桜の名所でもあります。

雪どけ後、春を待ちかねたように咲き誇る桜は、250種、実に10,000本以上。
染井吉野・大山桜はもとより、松前で生まれた北鵬・静香など、春の松前は桜色一色になります。

そして城を後にして、足早に近くにある「松前藩屋敷」へ。


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松前藩武家屋敷

たまたま松前城築城400年記念「松前の歴史」が目につき購入。(税込:¥1,200)


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概説 松前の歴史

→ 松前藩武家屋敷内 QTVRパノラマ映像
→ 髪結 QTVRパノラマ映像

石田城と並び日本における最後期の旧式城郭である松前城。
戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す元新選組の土方歳三が率いる旧幕府の軍と攻防を繰り広げ、落城させられたことはあまりにも有名で、函館「五稜郭」と共に兼がね訪れるのを楽しみにしていた処でした。

【福山城(松前城)の沿革】
 約550年前の松前には大館と呼ぶ館があったが、後に松前氏を名乗った蠣崎氏がこの地に居住し徳山館と名づけ、松前家5世慶広が慶長5年(約380年前)に現城跡に大規模な館を造り「福山館」と称した。
 
 その後嘉永2年、17世崇広の代に北辺警護の必要上幕府は松前藩に命じて本式の城を築かせ、兵学者市川一学の設計により旧城をこわして新築し、安政元年に完成した。
 東西240m、南北300m、16の門、7つの砲台、4つのやぐらを有するわが国最後の本格的築城であった。

 明治元年箱館戦争のとき、攻防のちまたとなり、明治8年天守と本丸御門を残して大部分はとりこわされた。
 城跡は昭和10年国の史跡に、天守と門は昭和16年国宝に指定されたが昭和24年業火のため三層天守を焼失し、国宝指定が解除された。
 昭和25年本丸御門は国の重要文化財に指定されている。
 昭和35年天守閣、同36年搦手門は鉄筋コンクリートで再建された。
(松前城資料館 福山城の沿革より)

【松前】 アイヌ語地名
 マツ・オマイ
 マト・マイ = 婦人のいるところ
先住民の住む地に、和人の女性も住むという珍しさを表しているといわれています。

松前に一度は訪れてみたいと思い始めたのは、やはり司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」を読んでから。
江戸時代北方の航路を開拓しロシアとの外交交渉でも活躍した北前船船頭「高田屋嘉兵衛」の生涯を描いた小説で、松前城も重要な舞台となります。

【菜の花の沖】
       ・
       ・
松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の福山の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれといっていい。
(なぜ松前様はこんなところにいるのか)
       ・
       ・
(小説 「菜の花の沖」より)

真の国際人とはどうあるべきか?
長編ですが一読をお勧めします。



雨後晴れ11:20 気温/22℃ (.all images:biei.info)

アーチ橋:一部欠落

2004年 : 北海道遺産, 自然 [現象、温暖化 他], 道内 No Comments »


(タウシュベツ川橋梁.image: biei.info.)

タウシュベツ川橋梁、一部欠落:
ダム湖の水位が下がり湖面に2/3ほど姿を現した、「タウシュベツ川橋梁」。
昨年9月に発生した「十勝沖地震」で一部が欠け落ち、姿を現すまで心配されていました。
十勝沖地震が発生した’03年9月26日、橋は水面にわずかに出ていて損傷が分かってはいたが、詳しい規模などは不明のままだった。
今回確認されたのは中央付近の橋脚上部の損傷で、幅3メートル、深さ約2メートルにわたり欠落していた。全体が姿を現す2月以降から、上士幌町の本格的な調査が始まりました。

北海道遺産 旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群

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