ここ二日ほど朝方の気温が氷点下10℃を下回っています。
今日(冬至)の最高気温予想は-5℃。これから年明け1月の大寒に向けては寒さが最も厳しい厳冬期。
集中して読書などをするフリーな時間は、どうしても外気温がグングン下がり始める午後10時を過ぎてからになる。そこで活躍するのがネックウォーマー。ネックウォーマーをすると足元もあたたかくなるので室内でも冬場はわが家の必需品。
寒い中で、アイヌの伝記本『あいぬ物語』をご紹介。
と言ってもすでに読まれた方も多いかと。
道北旭川のまちは上川道路の開通と第七師団の配置により人口は増え、経済その他の活動は活発化したが、その陰では相変わらずアイヌの人たちにとっては苦難の歴史(アイヌ給与地問題など)が続いていた。
苦難の歴史を少し遡ると、
文禄2年(1593年)豊臣秀吉から朱印状を、慶長9年(1604年)に徳川家康から黒印状を発給された松前慶廣(まつまえ よしひろ)。
※ 徳川家康黒印状
定
一、自諸国松前へ出入之者共、志摩守不相断而、 夷仁与直ニ商買仕候儀、可爲曲事事。
一、志摩守ニ無断令渡海、賣買仕候者、急度可致言上事。
付、夷之儀者、 何方へ徃行候共、 可致夷次第事。
一、對夷人非分申懸者堅停止事。
右条々若於違背之輩者、可処厳科者也、仍如件。
慶長九年正月廿七日 黒印
松前志摩守とのへ*************************************************************
一、諸国より松前へ出入の者共、志摩守に相断(こと)わらずして、 夷(い)人と直(じか)に商賣仕候儀、曲事(くせごと)となさるべき事。
一、志摩守に断わらずして賣買仕候は、 きっと言上致すべき事。付(つけたり)、夷(い)の儀は何方へ徃行(おうこう)候共、夷次第に致し可き事。
一、夷人に対し非分を申しかけるは、堅く停止の事。右の条々もし違背のやからにおいては、厳科に処すべき者也、仍如件(よってくだんのごとし)。
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征夷大将軍となった徳川家康が、慶長9年(1604年)、松前慶廣に与えたもの。
松前氏の和人地・蝦夷地双方での対アイヌ民族交易の独占権を与え、和人は松前藩に断りなく蝦夷地に入ってはならない。
一方アイヌ民族の行動の自由(蝦夷人は松前地への出入り勝手)を認めている。また蝦夷人を強制して使役してはならない、などの内容。
黒印状の文面は、歴代将軍が松前藩主に出した朱印状とほぼ同一。
※ 現在北海道開拓記念館に保存展示されている「徳川家康黒印状」原本より
幕府は松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。
蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。
松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。
※ 松前藩の領地は「松前地」とよばれた渡島半島の一角だけで、それ以外の「蝦夷地」は隣国(保護国)。
これにより藩はイシカリ、テシオ・・・などに商い場所(交易所)を開設し、藩士は年に一回商い場所へ赴きアイヌと交易(米、酒、衣類などを持ち込み、アイヌからは干鮭(からさけ)、昆布などと)を行っていた。
松前藩士は、その蝦夷産物を江差、松前、箱館で商人へ売り利ざやを得ていたが、しょせん武士の商いで取引は商人にうまくやり込められるのが落ちであった。
そこで商人たちは「そんなやり方ではダメだから、蝦夷地との交易はわれわれに任せてくれれば、禄高に応じて権利金(運上金)を支払う。」と言いだし、武士も自営より商人に貸し与えて権利金を受け取る方をとり契約成立。
そしてその後、商い場所に運上屋を設け交易はすべて商人(場所請負人)が行うようになる。
※ この商人を「場所請負人」、建物を「運上屋」,料金を「運上金」と呼ぶ。
ところが、商人が介入するようになると、アイヌと交易するよりアイヌを働かせて「漁業を直営」した方が儲かると、安い賃金でアイヌを働かせ、アイヌに売り渡すものには高い値段を付けるなどして、場所請負人によって労働は奴隷化されアイヌに対する非道な振る舞いが横行する。
たまりかねたアイヌは非道に対して蜂起(クナシリ・メナシの戦い:1789年)するが、松前藩に鎮圧されアイヌ苦難の歴史は終わることがなかった。
明治に入ると1875年(明治8年)5月7日:樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)が日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた。
これまで樺太は雑居地(1854年日露和親条約)であったが交換条約によりロシア領となる。
これによりそれまで樺太に住んでいた先住民である樺太アイヌに対しては3年の猶予を与えて、ロシア国籍を取得するか・日本国籍を取得するかを選択させた。
そして日本国籍を取得するため樺太アイヌの北海道への移住が始まる。
アイヌたち841人は最北宗谷に移住を希望したが、明治政府は強制的に対雁(ついしかり:現江別市)に移住させてしまう。
その後なれない生活や病気で約半数が死亡。
1905年(明治38年)日露戦争後のポーツマツ条約では樺太の南半分(南樺太)が日本領になる。
1951年(昭和26年)敗戦後のサンフランシスコ平和条約で、日本は南樺太・千島列島(国後、択捉島などは含まれない:そのまま日本領土)を放棄。
ダラダラ長くなりましたが、明治政府により対雁に強制移住された樺太アイヌの中に、両親を失い周囲に人々に育てられた「山辺安之介」という当時9歳の少年がいた。
その彼の伝記が『あいぬ物語』(樺太アイヌ語による口述を金田一京助が筆記)。
山辺は日露戦争に従軍したり、南極探検隊で樺太犬の犬ぞり担当として参加するなど波瀾万丈の人生を送った。日本人として生きて行くしかなかった人生(同化)とは。
現在では「アイヌ物語」は古書店での入手も難しく、金田一京介全集第6巻(アイヌ語Ⅱ)の資料に納められているので図書館などで一読してみて下さい。
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