今日は八十八夜。
午前中の仕事をすべて終わらせて、川村カ子トアイヌ記念館(かわむらかねとあいぬきねんかん)へ向かいました。
上川地方を代表するアイヌの旧家として知られる川村家第8代川村カ子トが、1916年(大正5年)にアイヌ民族文化の正しい伝承・保護を目的として設立された唯一の私設資料館。
と言うことは今年で92年の歴史があることになり、アイヌ文化の資料館としては日本最古のものです。
記念館を入るとすぐ左手に、開拓期の近文アイヌの長老クーチンコロ(寛政4年~明治9年)の肖像が出迎えてくれます。
今日も相変わらず昼間の3時間ほどの空き時間を使って自宅から往復しての見学。
いつものようにあまり腰を据えて見ることができません。
川村カ子トについては、「カネト_炎のアイヌ魂」を読まれた方も多いでしょう。
1893年(明治26年)、旭川永山町キンクシベツでアイヌ酋長7代目イタキシロマ、
母アベナンカの息子として生まれる。
幼年時代蒸気機関車を目にし、心を打たれ鉄道の仕事に就くことを決意する。
小学校卒業後、鉄道人夫として測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、アイヌという理由で給料を半分にされるなど多くの悔しさを味わいながらも勉強を重ね、測量技手の試験に合格。
鉄道員札幌講習所を卒業後、1909年、鉄道省の測量技手として北海道の鉄道建設の先頭に立ち、北海道各地の線路工事の測量に携わる。
1914年(大正3年)に陸軍入隊、2年後に除隊。
1925年(大正14年)、三信鉄道に請われ、難しすぎて引き受けての無かった天竜峡~三河川合間の測量をアイヌ測量隊をひきいて敢行。
現場監督も務めて難工事を完成させた。
三信鉄道開通後は、樺太や朝鮮などで鉄道測量を手がけた後,旭川市の河村アイヌ記念館の館長としてアイヌ民族の文化保存に尽力する。
1960年(昭和35年)4月には、三信鉄道における貢献を縁として、信州に招かれている。
1977年(昭和52年)1月、死去。83歳。
アイヌ民族の生活用具や貴重な資料はもちろん、鉄道測量技手として名を馳せてた、当時のレベルなどの測量道具や鉄道資料も数多く展示されている。
この川村カ子トの「カ子ト(かねと)」と言う名前について、現在の館長である川村兼一氏は、カネトの「ネ=子」は出生届けの時に、役所の窓口が間違ったと言うお話を。
またアイヌの方々の名前についても以前講演で、
アイヌは子どもが生まれてもすぐには名前を付けず、赤ちゃんをシウシペとかシシベ
(うんことしっこの付いたもの)と呼ぶとのこと。
これはアイヌの方々の宗教観で、病気や悪魔が来ないように、わざと汚く名前を呼び、
成長するに従い、その子の性格や行いを見た上で、また将来こういう人間になってほしいという願いを込めて初めて、4~5歳で名前が付けられたとのことです。
初代イタキシロマさん(現館長:兼一氏のおじいちゃん)は「言論正しい」。
曾祖父モノクテさんは「力のある」。母方の祖母はハルコロ「食料を持つ」の意味に。
因みに、金成マツさんは、金成イメカニともいい、イメカニ「ご飯をてんこ盛りに盛る」、
またマツはアイヌ語で「女」と言う意味で、金成さんはアイヌ名を二つ持っていた。
と、お話をされていました。
館内を見終わり、外にあるウラチセ(笹葺き家)に入ってみました。
※ チセ
※ チセの呼び方の違いについては → こちら
そして帰る間際に民族衣装を着せてもらうことになり、短くも楽しい時間でした。
現在は第九代目の川村兼一氏(三代目館長:シンリツ・エオリパック・アイヌ/先祖を敬う人)が同館を継がれており、旭川にお越しの際は是非とも皆様も記念館に足を運んで見てください。
【川村カ子トアイヌ記念館】
北海道旭川市北門町11丁目
℡:0166-51-2461
