28日(月)から2泊3日で道南:渡島・檜山支庁へ出かけました。
函館、松前、江差を駆け足で廻った様子を順不同で紹介をして行きます。
昨日函館へ向け出発。
しかし函館に着く頃にはどしゃ降りの雨となりました。
道北は晴れていても、道南は毎日雨続きの空模様で改めて北海道の広さを実感します。
一夜明け、今日29日は函館から国道228号を松前町へ向け車を走らせます。
(午前7時40分出発)。
松前の手前に北海道最南端の地「白神岬」があります。
岬で写真を撮るため車のドアを開けようとするのですが強風で押し戻され、車のドアが開かないほどの強い風が吹き抜けています。
また北海道の海沿いを走っていていつも感じるのは、気温や風などの影響か、本州に比べて磯の匂いが弱いように思えます。
午前10時40分:松前町役場に到着。
役場内で資料を頂き、すぐ裏手の「松前城」へ向かいました。
城は町のシンボルであり、松前公園は北海道が誇る桜の名所でもあります。
北海道で唯一の藩である松前藩は江戸幕府誕生からわずか3年後に成立、松前藩が蝦夷地の交易権を支配し、多くの北前船が行き来し繁栄しました。
そのため松前は北の小京都ともいわれ、日本の歴史のなかでも異彩をはなつ最北の古都なのです。
【松前城(福山城)】
日本海から太平洋に抜ける「津軽海峡」。
この入り口に位置する松前に海を向かって睨みを効かすように建つ城、それが渡島管内松前町にある白亜の城「松前城(福山城/ふくやまじょう)」です。
道内でも福山城というより松前城のほうがとおりがいいようです。
戦国時代、豊臣秀吉によって蝦夷島王と認められた蠣崎義広(かきざきよしひろ)は、徳川家康より松前の名乗りを許され、現在の松前城の地:福山に館を築きました。
以来松前氏は代々福山を拠点にして幕末まで13代に渡って蝦夷地支配を行います。
嘉永2年(1849年)幕府は北方警備強化(ロシアの南下に備え)のため松前崇広に新しい城を築かせます。
崇広は兵学者高崎藩市川一学を招き五年の歳月をかけて、日本古来の城の形を継承しつつも西洋の大砲技術を取り入れた松前城を完成させました。
平成16年春に搦手(からめて)二の門、天神坂門および城の周囲に構えられていた台場の一部が復元され、「搦手二の門」の塀には鉄砲狭間(てっぽう-ざま)が並んでいます。
帯曲輪 (おび-ぐるわ)には七門の大砲が据えられた一番から七番の台場があります。
津軽海峡に近づく外国船を見張ることが松前城の役目なのです。
天神坂門から搦手二の門に至る景観は、明治以降破壊されていた石垣を発掘調査で地中に残存している部分を検出し、忠実に石垣を復元、その上に門や塀を復元している。
また馬坂口は松前城の搦手にある門で、箱館戦争のさい土方歳三率いる旧幕府軍の歩兵隊が攻め上った坂だといわれています。
復元された天守はコンクリート造りですが、昭和24年に焼失した外観を忠実に復元。
窓は小さく造られ実際より天守を大きく見せ、壁の内側には砲撃に耐えるよう鉄板が貼られています。現在天守の内部には「松前城資料館」があります。
天守の横に残る「本丸御門(表門)」は、「本丸御殿玄関」の一部と共に建築遺構。
本丸御門(表門)は城の門としては珍しい「切り妻屋根」になっており、冬場の凍結や雪の重み、強い潮風への対策から銅板で葺かれている。
塀の裾の部分は石垣で、城の石垣としては珍しい「亀甲積」になっている。
また表門の渡櫓(わたりやぐら)のある石垣には、箱館戦争の折に土方歳三らの軍勢が放った大砲の弾痕後が残っている。
外国船の攻撃に備えて築城された松前城。
皮肉にも明治元年新政府軍についた松前城は、旧幕府軍の猛攻を受け落城。翌年進攻した政府軍に奪回されるが二度の戦火にあっている。
また蝦夷地全体の支配の中心となるはずであったが、安政元年(1854年)6月、幕府は対露警備強化の観点から箱館奉行を再設置し、安政2年(1855年)2月23日にはこれまで松前藩領だった箱館周辺8ヶ村と全蝦夷地を幕府直轄としたため、その任務はあらたに建設される五稜郭(亀田役所土塁、また柳野城とも)に移された。
※ 築城時から現存する本丸御門は国の重要文化財、また2001年には北海道遺産(「福山城と寺町」)に選定された。
→ 本丸御門(表門) QTVRパノラマ映像
→ 本丸玄関 QTVRパノラマ映像
松前といえば桜!
北海道が全国に誇る桜の名所でもあります。
雪どけ後、春を待ちかねたように咲き誇る桜は、250種、実に10,000本以上。
染井吉野・大山桜はもとより、松前で生まれた北鵬・静香など、春の松前は桜色一色になります。
そして城を後にして、足早に近くにある「松前藩屋敷」へ。
たまたま松前城築城400年記念「松前の歴史」が目につき購入。(税込:¥1,200)
→ 松前藩武家屋敷内 QTVRパノラマ映像
→ 髪結 QTVRパノラマ映像
石田城と並び日本における最後期の旧式城郭である松前城。
戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す元新選組の土方歳三が率いる旧幕府の軍と攻防を繰り広げ、落城させられたことはあまりにも有名で、函館「五稜郭」と共に兼がね訪れるのを楽しみにしていた処でした。
【福山城(松前城)の沿革】
約550年前の松前には大館と呼ぶ館があったが、後に松前氏を名乗った蠣崎氏がこの地に居住し徳山館と名づけ、松前家5世慶広が慶長5年(約380年前)に現城跡に大規模な館を造り「福山館」と称した。
その後嘉永2年、17世崇広の代に北辺警護の必要上幕府は松前藩に命じて本式の城を築かせ、兵学者市川一学の設計により旧城をこわして新築し、安政元年に完成した。
東西240m、南北300m、16の門、7つの砲台、4つのやぐらを有するわが国最後の本格的築城であった。
明治元年箱館戦争のとき、攻防のちまたとなり、明治8年天守と本丸御門を残して大部分はとりこわされた。
城跡は昭和10年国の史跡に、天守と門は昭和16年国宝に指定されたが昭和24年業火のため三層天守を焼失し、国宝指定が解除された。
昭和25年本丸御門は国の重要文化財に指定されている。
昭和35年天守閣、同36年搦手門は鉄筋コンクリートで再建された。
(松前城資料館 福山城の沿革より)
※【松前】 アイヌ語地名
マツ・オマイ
マト・マイ = 婦人のいるところ
先住民の住む地に、和人の女性も住むという珍しさを表しているといわれています。
松前に一度は訪れてみたいと思い始めたのは、やはり司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」を読んでから。
江戸時代北方の航路を開拓しロシアとの外交交渉でも活躍した北前船船頭「高田屋嘉兵衛」の生涯を描いた小説で、松前城も重要な舞台となります。
【菜の花の沖】
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松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の福山の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれといっていい。
(なぜ松前様はこんなところにいるのか)
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(小説 「菜の花の沖」より)
真の国際人とはどうあるべきか?
長編ですが一読をお勧めします。
