雪解け後、木々の新緑が芽吹く前の寒々としたびえいの丘は何も覆い隠すものが無く実によく見通しが利きます。
三愛の丘からは少し離れた小高い丘の上(橋立山)に、夏場茂みに隠れて姿を見ることができない監的壕(かんてきごう)もこの時期はすぐに確認ができます。
ふと監的壕を見て。
そうだ以前から撮っておきながら繋ぎ合わせていなかった写真がある。
この機にいままでバラバラにご紹介をしていた美瑛町の戦争史跡のパノラマ写真をまとめてみました。
美瑛町史や隠れたる名勝地(美瑛探求会)で美瑛の戦争史跡として記録が残されているのは、
① 旧陸軍演習場廠舎(しょうしゃ)門柱 *西町2丁目 美瑛小学校グラウンド横
② 西町兵舎 *西町3~4丁目(個人所有)
③ 監的壕(かんてきごう):トーチカ *福富瑛進(個人の所有地)
④ 陸軍水道跡 *美瑛町立美馬牛小学校裏
の4カ所となっています。
そこでまず美瑛町史より、町最初の入地者から陸軍演習地が設けられた頃までの歴史を簡単に振り返ります。
【美瑛初の入地から演習場設置の頃までの概略】
美瑛に最初の鍬を入れた入地者の祖は兵庫県人の小林直三郎。
当時雇い人3人を引き連れて、明治27年9月15日 神楽18号から辺別川を渡り、辺別原野(現在の旭)に入地。
その後移住者も年々増加し土地開発も進んでいった。
その美瑛開発の大きな原動力となったのは鉄道(上川鉄道)の開通でした。
※上川鉄道
明治31年(1898年)7月に完成をみた 旭川 ~ 岩見沢 間。
また旭川から分岐する十勝線と手塩線はその前年に着工され、明治32年には十勝線は現在の上富良野まで完成された。
この十勝線(現時のJR北海道富良野線)の開通により経済的にも充実し、このことにより行政に於いても自治と独立を要求させ、明治33年(1900年)6月1日、神楽村から分離して美瑛村が誕生。
そして美瑛町に於ける畑作経営の先駆けとなった半澤農場の設立などを経ながら、時代は軍事色へと変わりつつ旭川に陸軍第七師団が設置され、明治40年(1907年)2月14日に陸軍演習場規則が公布、ほどなく美瑛村にも演習地が設けられることになった。
その広さは6,800㌶にもおよび、現在の西町に建てられた兵舎と付属施設は27棟にもなった。丘陵に囲まれた美瑛は演習場としては好適といわれた。
終戦後は開拓地として解放されて兵舎は住宅となり、引き揚げ者、復員軍人などが戦後の混乱期をここで生活した。
備)
※ 【ピイェ】(美瑛川) アイヌ語地名
Piye = 油ぎった川、濁った川
美瑛川はナイもベツも付けずにただ「ピイエ」と呼んでいたという。
美瑛は、アイヌ語の「ピイェ」より転訛したもので「油ぎった川、濁った川」という意味。
町名の起源で、漢字の「美瑛」は明治33年(1900年)神楽村から分村した時に早崎悦太郎が村名を委任されて命名し、採用された。
その意味は「美しき玉のように」という。
[出典:美瑛町百年史・アイヌ語地名の研究より抜粋]
美瑛町の戦争史跡 フルスクリーンパノラマ
※ 右上地球儀アイコンで地図開閉:地図内青色ボタンでパノラマ切替
ほんの一握りの人間の欲望から引き起こされる戦争によって大勢の人々の命が奪われます。「戦争と平和」それはわれわれ人間に突きつけられた永遠の課題なのです。
庭先では小雨の降る中で約40種ほど地植えにしてあるクリスマスローズが次々に開花しています。
もうすでに4月も後半、来週はGWの始まりです。
今年の連休は各交通機関の予約状況も順調のようで、後は天気だけ。
13:30 気温/9℃ (.all images:biei.info)