午前中、旭川市立北門中学校を訪れました。
もちろんお目当ては同校の「知里幸恵資料室」「郷土資料室」の見学です。
校内に入るとすぐ左手に「知里幸恵文学碑」が目につきます。
1903年(明治36年)、登別に生まれた知里幸恵。
幸恵は19年という短い生涯のうち、6才から19才までの約13年間を旭川で過ごしました。
その彼女が旭川で生活していた場所が、現在の
旭川市立北門中学校のあるところ。
このことを後世に伝えるために、学校関係者はもとより地域の方々の協力のもと、1990年(平成2年)には校舎前庭に「知里幸恵文学碑」が建立され、1997年(平成9年)には校内の一角に「郷土資料室」が、そして2007年(平成19年)に「知里幸恵資料室」が整備されたとのことです。
予てから楽しみにしていただけに、どの写真や資料を見てもしばし釘付けになります。
→ 知里幸恵資料室 QTVR映像
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北海道に移り住むまでは、アイヌ関連の本などあまり読まなかったわれわれ夫婦が移住後に出会った一冊の文庫本。
タイトルは「アイヌ神謡集」:もう12年も前のことです。
この神謡集は1922年(大正11年)3月、19歳の幸恵が母語をローマ字で、その翻訳を優麗な日本語で綴り残したのもです。
岩波文庫本は見開き左綴じという装丁で、左ページに母語のローマ字表記、右に日本語訳が掲載されています。
また編訳者の知里幸恵という響きの良い名前が非常にさわやかで新鮮な気分にさせてくれました。
「銀の滴(しずく)降る降るまわりに 金の滴降る降るまわりに。」という歌を私は歌いながら流(ながれ)に沿って下り 人間の村の上を通りながら下を眺めると昔の貧乏人が今お金持になっていて 昔のお金持が今の貧乏人になっている様です。
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あまりにも有名なアイヌ神謡集冒頭の物語「梟の神の自ら歌った謡」の書き出しです。
しかしそれ以上に感動を呼ばずにおかないのは、その「序」。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。・・・・・」
と、幸恵の怒りと切々と祈るがごとく綴ったその言葉で始まる序文は身震いがします。
このアイヌ神謡集が生まれる転機となったのが、15歳の時に出会った金田一京助。
1918年(大正7年)に旭川郊外の近文(ちかぶみ)部落を訪れた金田一京助を泊めた縁から、自ら書き始めた「アイヌ神謡集」の出版の話が進み、1922(大正11)年5月に上京し、金田一家に寄寓しながら校正作業にあたるが、その年9月、心臓病で急死。
享年19歳3ヶ月という若さでした。
また自分の思いを胸が張り裂けんばかりに綴った幸恵の日記。
編集者から、「言わなければ知られずに済むのに、何でアイヌなんて言うのか」との言葉に対して憤慨し反発しています。
「(前略)同じ人ではないか。
私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。(後略)」
知里幸恵に関しては多くの学者や評論家など専門家の方々が研究され論表されていますが、我々のようなずぶの素人が惹きつけられる訳は。
自分さえよければが大手を振り、家族ですら崩壊しつつある昨今に於いて、命がけで守るものを私も・あなたもはたして持っているだろうか?
年若きアイヌ女性から学ぶべきことが山積しています。
北海道に移り住み遅ればせながら手にした一冊の文庫本。
その美しい日本語の中に潜んでいる本質や意味を推しはかることができてこそ、今なお続く「アイヌ民族」にかかわる諸問題と向き合うことができるのではないでしょうか。
【知里幸恵の略歴】:1903年(明治36年) – 1922年(大正11年)
大正時代のアイヌ文化伝承者。
北海道幌別生れ。旭川区立女子職業学校卒業。
死後、1923年(大正12年) 「アイヌ神謡集」出版。
北海道幌別のアイヌ村長(コタンコロクル」の家柄。
知里高吉の長女、母はナミでユーカラの語り手金成(かんなり)マツの妹。
知里高央(たかお)・知里真志保(ましほ)の姉。
金田一京助の家に寄寓しているときに急死。
1903年 登別に生まれる。
1907年 弟、高央が誕生。この頃、祖母モナシノウクと2人暮らしを始める。
1909年 弟、真志保(アイヌ言語学者)誕生。
旭川へ転居し、金成マツと祖母と3人暮らしを始める。
1910年 小学校へ入学するが、9月にはアイヌの児童が集まる小学校が開校し、そこに移る。
1917年 旭川区立女子職業学校へ入学。
1918年 金田一京助と出会う。(彼女:15歳の運命の出会い)
1922年 5月、東京の金田一宅に住み始めるが9月に亡くなる。
1923年 没後「アイヌ神謡集」(東京郷土研究社)が出版される。
1975年 東京から登別に改葬される。
(「アイヌ語地名を歩く」 山田秀三著 知里博士との出会いより.image: 北海道新聞社.)
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そして郷土資料室へ。
アイヌ民族の女性で長い間教員を務められた荒井和子さんが寄贈されたものをはじめ、
貴重な写真、資料、生活用具などが多数展示してあります。
また資料室では、旭川市文化奨励賞など数々の受賞歴を誇る同校郷土史研究部の皆さんの熱心な活動ぶりも紹介されていました。
この貴重な写真や資料を一目見るために、日本はもとより海外からも見学者が訪れるとのお話でした。素晴らしい時間をありがとうございました。
→ 郷土資料室 QTVR映像
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